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弾薬庫跡・平和の碑

弾薬庫跡


弾薬庫の鉄扉。弾薬庫跡は今、倉庫、変電所、浄化槽に使われています。


崖の上に突き出た弾薬庫の換気塔


弾薬庫内部の様子。

 内周道路沿いの道脇に緑色の鉄扉があります。これは第2次大戦中に使われていた弾薬庫の名残りです。現在こどもの国がある場所は、戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として、旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送・製造していました。

 弾薬庫は計33基つくられましたが、土に埋まったり湖に沈んだりして、今確認できるのは十数基だけです。弾薬庫は入口が左右2ヵ所あり、コの字型になっています。部屋の大きさはまちまちですが、ある弾薬庫は幅が25~30メートル、奥行き7メートル、壁の高さ4メートルで、天井の一番高いところで5~6メートルあります。屋根には換気塔が2~6個ついていました。

 壁から少し隙間をあけて張った木材の表面を銅板で覆い、床にはリノリウムが張り巡らされていました。静電気や火花が起きないためです。結露を防ぐために、壁沿いに溝が掘られ、その上の壁に1メートルの高さでコールタールが塗られていました。温度と湿度の管理が厳しく、夏は涼しく、冬は暖かかったそうです。

 保管する弾薬に応じて構造が少し異なるようで、換気塔の数がまちまちで、入口にシャワーが出るようになった弾薬庫もありました。入口が1段高くなっているのは、トラックや荷車の高さに合わせたためです。ガソリンエンジンは火花が出るので、園内の運搬に電気自動車も使っていました。

 弾薬庫は一見トンネルのようですが、実は違います。土手を削って更地にした後、そこに厚さ30センチのコンクリート枠で部屋を造ります。その上に厚さ1メートルの土をかぶせました。1基の弾薬庫を造るのに必要なコンクリートはミキサー車50台分でした。ここの土地は粘土質で地盤が固いため、かなりの重労働でした。

 この場所は細い谷が入り組んだ谷戸と呼ばれる地形で、13戸の農家が暮らしていました。1938年、国家総動員法で住民は強制的に退去させられ、弾薬庫工事が始まりました。41年に旧陸軍田奈部隊が発足してから、弾薬庫の本格的な利用が開始しました。

 敗戦後、61年に「こどもの国」用地として日本に返還されるまで、米軍弾薬庫として接収されていたので、結果的に都会の中にあって豊かな自然がそのまま残されました。

参考資料(PDF)

平和の碑


平和の碑の表には「平和を祈る」とだけ書かれています。

 正面入口から入って右側、道路をはさみ「白百合の丘」と呼ばれている高台があります。その高台に「平和を祈る」と書かれた平和の碑が建っています。碑の裏側には「戦争のない世界を願って」と題し、建立の由来が書かれています。

「1944年から45年にかけて、神奈川高等女学校の学生だった私たちは、国の命令で勉強をやめ、ここで砲弾を作る作業につきました。その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うと、とても恐ろしい気持ちです。戦争を再び起こしてはならない、この思いを込めて、女学生休憩所のあった丘に平和の碑を建てました。平和な世界の中でこどもたちがのびのびと育ちますように」


平和の碑の裏には「戦争のない世界を願って」と題して、碑を建てた由来が刻まれています。

 こどもの国の土地は戦時中、旧陸軍の東京陸軍兵器補給廠(しょう)田奈部隊・同填薬所でした。ここで3,000人の日本人軍属が地雷、対戦車砲、手榴弾、高射砲、野戦重砲などの砲弾を製造していました。これを33ヵ所の弾薬庫に保管し、現在の中央広場と牧場口駐車場の2ヵ所にまで延びていた鉄道引き込み線の駅から、全国に輸送していました。

 1944年から県立横浜第2中学(現・翠嵐=すいらん=高校)の4年生(28期生、15歳、250人、男子)と、神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の4年生(29期生・30期生、14・15歳、200人、女子)が、学徒動員で毎日駆り出され、朝8時から夕方まで、薬きょうに火薬を詰める作業をしていました。

 米軍の空襲は1度もありませんでした。しかし、悲しい事故はありました。横浜第2中の学生たちは長津田からトラックの荷台に立ったまま載せられ、通勤していました。44年11月30日の朝、トラックと、前からきた将校の乗る車が、狭い道で立ち往生しました。トラックが道を譲ろうと、道路わきギリギリにバックしたところ、前日からの雨で緩んでいた路肩が急に崩れ、そのまま下の川に転落してしまいました。この事故で、中学生6人が水死しました。葬儀で、田奈部隊の上官は「この非常時に、このくらいの犠牲はやむをえない」と言ったそうです。


急な階段を上がったところが白百合の丘です。

 当時、この土地には白百合が咲き誇っていました。女学生休憩所のあった丘にも白百合がたくさん咲いていたので、女学生たちは「白百合の丘」と呼んでいました。働きづめの女学生たちを慰めようと、田奈部隊の1人の兵士が白百合を摘めるだけ摘んで、帰り際に1本ずつプレゼントしました。優しい心遣いに感激した女学生たちは、この兵士を「白百合の君」と呼んで、あこがれたそうです。

 女学生の楽しみは仕事の後に支給されるコーヒー色の甘い飲み物でした。1日火薬を扱う作業をすると、手の先から足の裏まで真っ黄色になり、数日間消えませんでした。当然、硫黄などの成分が体に良いわけがなく、甘い飲み物は解毒剤だったようです。

 1945年2月7日の正午前、この女学生休憩所で昼食を待っていた時、ものすごい爆発音がとどろきました。建物全体が震え、休憩所の窓ガラスも全部粉々に砕け散りました。現在の中央広場にあった駅のプラットホームで棒地雷を貨車に積み込む作業中、突然大爆発が起きたのです。軍属の作業員6人と、近くにいた馬の体がバラバラになりました。昼食当番でたまたま通りがかった女学生の1人も事故に巻き込まれ、片足を切断する大けがを負いました。ちょうど雪の降りしきる日で、高台の女学生休憩所からは一面の雪景色の中、赤い血や肉片が点々と飛び散った光景が、はっきりと見渡せたそうです。


神奈川高等女学校30期4年生のみなさん。学徒動員のこの頃、まだ14、15歳の少女でした。=小金千恵子さん提供

 戦後、女学生の1人が沖縄を訪れた時、ひめゆり部隊をはじめ、住民の多くが手榴弾で集団自殺に追いこまれたことを知りました。「ひょっとして私たちが作った手榴弾だったのではないでしょうか」この時のショックを女学生仲間に語り伝えるうちに、みんなで平和を願う碑を建てようと、募金活動が始まりました。こうして96年3月28日、女学生休憩所があった丘に平和の碑が完成しました。