マップ No.CMAP
三指の礼をするボーイスカウトの銅像とレリーフ、由来をつづった銅板。弾薬庫跡の入口を利用して建てられました。
銅板のレリーフには日本兵と米兵の逸話が描かれています。
もう一つの銅板には無名戦士の由来がつづられています。
せせらぎの奥、梅林の下に「無名戦士の記念碑」があります。高さ125センチのこどものボーイスカウトの銅像が、「三指の礼」を捧げています。その視線の先には、縦1.7メートル、横2.2メートルの銅板のレリーフが埋め込まれています。レリーフには倒れた兵士と、そのかたわらで三指の礼をする兵士の姿が刻まれています。
さらにその近くには、「無名のスカウト戦士」と題するレリーフの由来が書かれた銅板が張りつけられています。銅板の由来には、こんな内容(意訳)が書かれています。
第2次大戦中、激戦の南洋諸島のある島でのお話。
重傷を負った1人の米兵が倒れていました。そこへ剣付きの銃を持った日本兵が通りかかります。気付いた米兵は「あっ、殺される」と思った瞬間、気を失ってしまいました。
しばらくして目覚めた米兵。もう日本兵はいません。そばに落ちていた白い紙切れに気付き、何気なくポケットに入れます。そのまま野戦救護所に担ぎ込まれ、一命を取り留めました。その時拾った紙切れに、こんなことが書かれていました。
「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。傷には包帯をしておいたよ。グッドラック」
戦後、この米兵は米国のボーイスカウト連盟本部を訪ね、この話を伝えました。1952年、米国のスカウト本部の役員が来日した際、この話を日本側に伝えました。米兵は本名を明かしていません。日本兵は戦死したようです。無名のスカウト戦士の間のできごとです。
この無名の日本兵の行動こそ日本の武士道精神、スカウト精神の結晶です。
三指の礼とは、人差し指、中指、薬指だけを伸ばした敬礼の仕方です。世界中のスカウトが共通して使っている独特のあいさつです。1952年にこの話が日本に伝えられた時、新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。この日本兵がだれなのか調べられましたが、ついに分からずじまいで、戦死したのだろうと言われています。
無名戦士の記念碑は1966年5月5日、スカウト仲間の寄付金をもとに建てられました。戦争の愚かさと、敵味方を超えた友情の気高さを若いスカウトたちに語り継ぎたいと、ボーイスカウト日本連盟理事長だった久留島秀三郎氏(1888-1970)が中心になって、募金を集めました。久留島氏は財界出身で、こどもの国の創設の際、厚生省(当時)中央児童厚生施設特別委員会の委員長として活躍しました。
こどもの国の土地は戦後、在日米軍に接収されていましたが、当初、米軍からの返事は「返還ノー」と強硬でした。そこで久留島氏が米軍司令官と直談判した結果、劇的などんでん返しが起き、「返還イエス」に変わりました。その司令官もボーイスカウト出身で、会談ではスカウトの話題に花が咲き、「返還の是非は再度検討する」との回答を得ました。会談後、2人は互いに三指の礼をして別れました。帰りの車中で久留島氏は「これで返ってくるな」とつぶやいたと伝えられています。